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立ち直り

私は今のところ、自分の死の恐怖は実感として感じていない。
だって、自分は死んだら、それで終わりなのだから。
でも、残された人は、それで終わらない。
私にはそのことが、何よりも気がかりだ。

私には、誰よりも何よりも自分よりも大切な子供が二人いる。
そのどちらにも、まだ幼い時期に母親を亡くすという悲しみを味わって欲しくない。
そんな経験は、絶対にさせたくない。
少なくとも成人するまで、させてはいけない。

でも、もしも、そんなことになったら、
自分が死んだ後のことは、幽霊になるのか天国に行くのか全く分からないけれど
私の家族がどういうことになるのかは、はっきり分かっている。

自分の病理をネットで検索して、悪いことを目にして以来、
その、私の死後の家族の様子というのが、
私の脳裏に鮮やかにイメージとして浮かぶようになった。

一時、そのイメージが頭から離れなくなってしまったとき
私は、周りの人間とは別の世界にいるように感じていた。

それまでの、周りのみんなと一緒にいた世界では
「How are you?」と聞かれて、多少具合が悪かったり、悩みがあっても
ニッコリ笑って「I'm fine.」と答えていた。
それが出来なくなった。
無理矢理やっていたけど、そうするのがとても辛かった。

今までは、何かあっても、時間がたてば落ち着いてきて
なんとか対処出来るようになっていたけれど
今回ばっかりは、初めて、自分の力だけで対処出来る自信がなくなった。

それで、私のKey Workerである、Breast Care Nurseのメアリーに連絡を取ることにした。
とりあえず、彼女以外にこういう相談が出来る人は思い浮かばなかった。
彼女にコンタクトを取るために病院に電話するのは勇気が必要だった。
元々電話は苦手だし、こんなときなんて言えばいいのか分からない。

でも、勇気を出してかけた電話に、当のメアリーが出た。
そして、私の名前を言っただけで、すぐに私が誰だか分かってくれた。
(たくさんの患者を抱えていて、私とは数回会ったことがあるだけなのに。)
ちょっと悩んでいることがあるんだけれど・・・と言ったら
今から会いに来る?と言ってくれた。
彼女はとても忙しい人だ。先日も私との用事をバタバタと済ませて去ってしまった。
でも、この日のこの時間、たまたま彼女には時間があった。
何と言う偶然なのか、幸運は本当に必要なときにやってくるものらしい。
私はすぐに病院に向かった。運が私を後押ししてくれていた。

メアリーと話したのは30分くらいだったか。
ありきたりな話をしたんだと思う。
何か特別なことを言ってもらったわけではない。
あなたは絶対に治ると言ってくれたわけでもない。
でも、快く私を迎えて話を聞いてもらえたことが嬉しかった。

「再発が絶対にないと言えないことは良く分かっているけれど
あなた個人としては、私のケースは大丈夫だろうと思えますか?」
という、残酷な質問をしてしまった。
そんなこと聞かれて、「ダメでしょうね~」なんて思っていても言えるわけが無い。
それでも「うん、私は大丈夫だと思ってるわよ。」の一言が欲しかった。
彼女は当然、期待通りの答えをくれた。

私はそれを信じる事にした。
私の病理を正確に知っていて、ここで乳がん患者を10年見て来た彼女の言う事は
素人の私がネットで調べて得た不安材料よりは、よっぽど信用出来る。

気持ちが180度変わって急にポジティブになれたわけではない。
でも、この自分の状態を受け入れる準備が出来たかもしれない。

それから、時間が経過して、私は段々落ち着いて来た。
抗がん剤治療が始まって、同じ境遇の人を多く見るようになったことも大きい。

再発リスクの少ない患者に、抗がん剤治療は不要だ。
だから抗がん剤治療の経験者は、みんな私と似たようなリスクを背負っていることになるが
病院で抗がん剤治療を受けている人は、本当にたくさんいる。
実際の投与をするIV Roomはいつも満員だし、普通に健康そうな人たちが受けている。
この人たちがみんな無駄な治療をやっているわけがない。
ほとんどの人に効果があるから、やっているのだ。
(そうでなければ、NHSから金が出ないだろう。。。)

そして、自分がガンになって以来、周りにガン経験者が多いことに気がついた。
抗がん剤をやっていた人も多い。でも、みんな元気にしている。
ガンのサバイバーの人と会って話すことは、私に勇気をくれる。
私もその人たちの仲間入りをするだけなのだ。

あとは「慣れ」だ。
どんな境遇でも人間は慣れるものらしい。
結局、毎日を死ぬ事ばかり考えながら生きてはいけないわけで
そのうち、どうでもいいことで頭を悩ます日々に戻って行った。

そうして、今は「How are you?」と聞かれても
普通に返事が出来るようになったし、
今の私は本当に、Fineだと思う。
住んでいる世界は、みんなとはちょっと違うけれども。。。

病理診断結果

なかなか書けないでいた病理診断の結果について
重い腰を上げて、ようやく書くことにします。

手術前に行った、マンモグラフィー+超音波術前+針生検の検査は、
ガンかどうかの判断は出来るものの
正確な大きさや広がりは、手術をしてそのブツを取ってみないと
分からないのです。
私の左胸は、切り取られた後、薄~く25枚(!)にスライスされて、
その一重一重が顕微鏡で検査され、
それでようやくガンの実態が分かったのでした。

私の術前診断では、非浸潤ガンなので術後補助治療は一切不要と言われていました。
術後の病理診断が、術前の診断より悪くなることはよくあるけれど、
たとえそうなったとしても、私の場合は薬の服用が必要になるとかいう
その程度のものだろうと、キーワーカーのナースは言っていました。
しかし、手術直後に執刀医が来て、センチネルリンパ節に微小転移があったと告げられ、
「ホルモン治療は必須だけど、抗がん剤はどうかしらね~」と
軽く言われてしまっていたので、ナースの言うほど楽観的な結果ではないだろうと
少し心配はしていました。

自分が抗がん剤治療をするかもしれないということは
それまで全く考えてもいなかったので、軽く言われてしまってショックでした。
病院に行くと良く見かける、脱毛してスカーフを巻いている人たちは
私とは違う重病患者だと思っていましたし、
あんな、いかにもガン患者風な人にはなりたくない、と思っていました。
病院のメインの建物と別棟にある、放射線治療の建物を見る度、
ここに入ったら被曝するんだ、そんなの嫌だわ~と思っていました。
でも、今は自分がそうなるかもしれない可能性を持っている。
そう思うと、とても不安になりました。
でも、結果が出るまでは考えても仕方のないことなので、
ただただ良い結果であるよう祈っていました。

手術から約2週間後の1月25日に、術後の経過観察と病理診断を聞くために病院に行きました。
その日に誰に会うのか全く分かっていませんでしたが
私の目の前に現れたのは、執刀医の女性と、私のキーワーカーのナースでした。
執刀医は、手術日に会ったときよりはリラックスしていましたが
やっぱり、少し事務的な感じのする女性で、苦手なタイプでした。

たくさんの非浸潤ガンの集まりの中に、小さな浸潤ガンいくつか見つかったこと、
おそらく、抗がん剤治療+放射線治療+ホルモン治療のフルコースになるだろうけれど
詳しくは、Oncologist(腫瘍専門医)と相談して決めること
などを、彼女の口から事務的に説明されて、ハイ終わりという感じでした。
病理診断書をもらえると思っていたのに、書面では何もくれなかったので
ナースに話したところ、診断書のようなものを印刷して持って来てくれました。
そうして、その2日後に、オンコロジストという人に会うことになりました。

このときは、「はあ、そうですか」という感じで、どう受け止めていいのか分かりませんでした。
おそらく、抗がん剤はやることになるらしい、髪の毛はほぼ100%抜けるらしい、
ということが一番のショックでした。
おっぱいを失っただけでも辛いのに、なんでその上ハゲにならないといけないのよ!!
髪の毛は治療が終われば必ず生えて来るってみんな言うけれど
髪の毛は胸と違って洋服で隠せるものじゃないから
たとえ一時的なものだとしても、外見上のダメージは大きいじゃないの!

でも!ぐだぐだ言っていても仕方が無い!
大切な治療なんだから、髪の毛がどうのこうのと言ってる場合じゃないだろ!
という風に気持ちはすぐに切り替えられました。
とにかく私は子供たちのために、彼らが成人するまでは死ねないのです。
元気に長生き出来るのであれば、それ以外のことはどうでも良いと
そんな風に思えるんですよね、自分でも不思議だけれど。

そして、1月27日にオンコロジストに会うときには、すっかり前向きになっていました。
ところで、25日にもらった病理診断書ですが、医学用語を調べて解読を試みたものの
やっぱり分からないことがたくさんあるのです。
この日は、その分からないことを質問しなければと思って
質問事項をメモに書き止めて、握りしめていました。

すると、この日に現れたのは、2日前の事務的外科医とは大違いの
超フレンドリーな女性。イギリス人じゃないようで、外国訛がちょっと聞きづらいのですが
登場した瞬間から「さ~、聞きたい事たくさんあるでしょ?かかってらっしゃい!」という感じで
私の握りしめていたメモを奪って勝手に読みだし(変な英語で書いてあって恥ずかしいのに~!)
順番にスラスラと答えてくれました。
で、最後に大御所先生のような男性が現れて、もう一度ゆっくりと説明していただき、
既に覚悟は出来ていましたが、抗がん剤治療が必要だと言う事が十分に分かりました。

質問事項については大体納得したのですが、
生存率のことは結局はっきりとは言ってもらえませんでした。
よくI期とかII期とかで表されるステージについても、
私のケースは病巣が複数あって、大きさ何センチという判断が出来ないことなどから
ステージでは言えないと言われました。
ただ、中間リスクであることは間違いないので
まあ、II期のaかbと言ったところだと思います。
最初の0期に比べたら、随分行っちゃったワケですね。

そうして、割とポジティブにこの日は終了したわけですが
その後、自分の病理診断と同じ人がちゃんと生きているかどうか調べようとして
ネットを漁ってしまったのが良くありませんでした。
ブログなどで自分の病理結果を公表している人が世の中には多くいるんですよね。
でも実際、全く同じ病理の人というのは、見つけられませんでした。
ただ、ごく一部同じだったりした人の中に、既に他界されている方がいたりして・・・。

それまでは、なんとなく、再発したとしても10年は生きられるんじゃないか
10年生きられれば、まあいいじゃないか、と考えていたのですが
10年や5年どころか、1年とかで再発してあっという間に亡くなってしまう方がいると知って
自分にもそういうことが起きるのかもしれないと思ったら
いよいよ、さすがの私もポジティブではいられなくなってしまいました。

インターネットは本当に便利ですが
見ない方が良い情報も入って来てしまうんですよね。
なので、私は自分の病理診断をここには公表しないことにしました。

さあ、そこからどうやって立ち直ったのか!?
それについては長くなるので、また別の記事として書く事にします。
(勿体ぶってる?)

抗がん剤3回目

今日で3回目の抗がん剤を打ってから3週間が経ちました。
本当は今日、4回目を打つのが本来のスケジュールなのですが
明日、ムスコの補習校の入学式があるので、来週に延期してもらいました。

3週間ごとに打つのが最適とされているので
スケジュールの延期はなるべくなら避けたいところですが
病院に相談してみたら、意外とすんなりOKが出ました。
「毎回ならダメだけど、1~2回なら大丈夫よ。」とのこと。
その割に、GP(かかりつけ医)への報告書(毎回、コピーが私にも送られて来る)では、
「延期は薬の効果へ影響するので、今後はしないように本人に約束させました」なんて
厳しく書いてあって、が~ん。。。
いつもこの報告書、実際に私が受けてるニュアンスと微妙に違うんですよね。
そんなわけで、明日は命がけで(?)母は入学式に出席するわけですが
当のムスコは「行きたくな~い」と嫌がっています。どうなることやら・・・。

それでは、この3回目の抗がん剤後の様子を記録しておこうと思います。

2回目の後は、熱が出て入院したり、骨の痛みや微熱があったりしたので
自分としても体力の自信を失い慎重に過ごしていて、ようやく3週目になって
割と普通に動けるようになっていたところでした。

しかも、直前に知り合った乳がん経験者から
「抗がん剤は最初の1、2回くらいは平気だけど段々辛くなるのよ~」と聞いて
ビビって挑んだ3回目でした。

ところが、今回の副作用は今までで一番軽かったのです!

受けたのは、3月30日(金)。
点滴が始まる前から既に、気分が悪いような気がして
打ち始めて、薬の臭いとか嗅いだら、もうダメなような気がして
ああ、家に帰るまで持つかしら・・・と心配していました。

ところが、無事に家に帰り、その日の夜は一度も吐きませんでした。
原因として考えられるのは、
抗がん剤を打った時間が遅かったので
完全に吐き気が始まる前に寝てしまったことか?
水分補給をただの水でなくて、ジュースにしたことか?
体が抗がん剤に慣れたのか?(←これは困る)

夜中に気分が悪くなって何度か目が覚めたけど
なんとか吐かずに乗り越えられました。
そのせいか、翌朝の気分も前回2度のときよりも良く
いつも通りにおかゆを食べたけど、それだけでは物足りず
普通のトーストとスクランブルエッグを食べてしまい
それ以降、食事は通常になりました。

今回も、24時間後に白血球の減少予防の注射を打ちました。
今度は本当にひとりきりで注射!
針がスムーズに入らなくて、ちょっと痛かったなあ。
この薬の副作用が3日後にやって来ました。
体中が軽い筋肉痛のようになって、体中どこを触っても痛いです。
微熱も出たりします。
でも、痛みは4日後がピークでその後減っていき、いつの間にか消えていました。

抗がん剤投与後は、しばらく便秘がちになります。
全く出ないわけではなくても、出にくかったり堅かったりするので
だんだんお腹が張ってくるようになり、4日後以降からお腹が常に重い感じがします。
でも数日のうちに、だんだん軽くなり、気にならなくなって来ました。

投与後6日後、喉が詰まったような感覚がありました。
これは1回目の抗がん剤の後にもありました。
これも2日くらいたつと消えてしまいます。

そんな感じで、直後の吐き気がなかったせいか
体力もいつもより早く回復し、投与後10日目くらいには
ほぼ普通通りに動けるようになっていました。
丁度、学校が春休みだったので
お友達の家に長時間遊びに出かけたり
ボーリングに行ったり、遊園地に行ったりしましたが
全然疲れも出ませんでした。
久しぶりにボランティアの仕事にも参加して、これも全く問題なし。

先月止まったと思っていた生理まで、普通に戻って来てしまいました。
髪の毛も、増えてはいないけど、減ってもいない感じ。
なんか、抗がん剤ちゃんと効いてるのか~???って不安になってしまうくらいです。

そう言えばここ最近、夜の寝汗がひどいのです。
副作用で寝汗っていうのは、どこでも聞いたことのないので
今までは暖冬のせいかな?気のせいかな?と思っていましたが
私の場合、これも抗がん剤の副作用のような気がします。
元々夜は体が冷えるくらいだったのに、もう発汗量が半端じゃないんです。
体が発汗で毒を出そうとしてるのかな~?
これもピークは投与後1週間で、後はだんだん治まってきます。
尿の量も増えてる気がします。だから水分補給がたくさん必要です。

それで砂糖2杯入れた甘~い紅茶を日に何杯も飲んでいたのですが
最近読んでいる、がん患者の食生活を考える本で
砂糖(特に白砂糖)はガン増殖の餌になるということを知りました!
更に、ガンの抑制には日本の緑茶が効果的ということも知りました!
なので、今は甘い紅茶をやめて、緑茶をせっせと飲んでいます。

食生活の話は、今度ゆっくり書きたいと思ってます。

体の調子が普通だと、ガンのことを忘れてしまいます。
自分が病気で弱気になっていると、ダンナ様サマで、彼を頼り切ってしまうのですが
病気を忘れて強気になると途端に、ダンナへの態度が冷たくなります。
これは改めないとな~・・・。

抗がん剤1回目

記録として箇条書きにしてあった、第一回目の抗がん剤治療後の様子を
そのままアップしてしまいます。

2月13日(月)
血液検査は3日前に終了済みなので、この日は朝11時半頃開始。
夕方4時ころから疲労感。5時ころには気持ち悪くなりベッドで横になる。
吐き気があり、5時半頃と9時頃に吐く。2時ころ、少し楽になって寝る。
それから、寝たり起きたりを繰り返して、翌朝には吐き気が大分収まっていた。
朝からお粥など少しずつ食べ始める。
食べるたびに元気になり、その後吐くこともなかったが
微熱、頭痛、疲労感があるので、3日目まで寝て過ごす。

4日目から起き出して、軽い家事などこなす。食事も普通になる。
苦いものが苦手になり、日本茶が美味しくなくなった。
他の味覚はそれほど変化無し。

6日目の土曜日、それまで体調は良くなっていたのに
急に朝起きたときから倦怠感を感じる。
大人しく過ごしていたら、午後から少し良くなる。

7日目以降、また体調は良くなり始める。
この日は外に散歩に出かける。
すぐにお腹が減って、エネルギーを補給したくなる。

10日目くらいから、普通の体調になり、体力にも自信がつく。
一日中普通に動いていても疲れない。
相変わらず、食べ続けているが
エネルギー補給の欲求は減ったような気がする。

体重は、手術前ダイエットの最低ラインをより1キロ減った状態を維持していたが
18日目で1キロ増えて戻っていた。

12日の夜から髪の毛をひっぱると簡単に抜けるようになる。
ひっぱればひっぱるだけ抜ける。
13日の夜のシャンプーではかなり抜ける。
日に日に抜ける量が増えて、
ついに18日目の夜のシャンプーで抜ける量が多過ぎたので
覚悟を決めてほとんど全部抜けるまで髪をむしり取った。

17日目にあたる2月29日、生理が周期通りに始まる。

手術日記

ようやく手術についての記事です。
実は手術日とその後何日かの記録は、術後3日目くらいに書き残しておいたのを見つけました。
今読んでみると既に忘れていることもあるんですよね~。
なのでその記録に少し補足しただけなので、今回の記事は箇条書き風です。

1月9日月曜日(手術3日前)
手術前の健康診断のようなものを受ける。ナースの問診と血液検査をやったように思う。
もうあまり覚えてない。。。

1月11日水曜日(手術前日)
まずは、翌日の手術の同意書にサインする。
本来ならば告知の日にサインするらしかったのだが、私が動揺していたので
サインさせなかったらしい。そんなことなかったのになあ。
その後、場所を変えて、センチネル・リンパ節スキャンをする。
(センチネル・リンパ節とは、がん細胞が最初に転移するリンパ節のこと。
手術時にこのリンパ節のみ除去して、がん細胞があるかどうか術中に検査をする。
ここにがん細胞があれば、更に多くのリンパ節を除去するが
なければ、それ以上の除去は不要と見なされ省略出来る。)
しこりのあるあたりに、微量の放射性物質を注射で注入する。これは女性がやってくれた。
その後、男性技師に交替して、私はPETだかCTだかの機械に入る。
5分間じっとしているのを3回やった。これが少し前だったら風邪の咳が残っていて
5分もじっとしていられなかったので、ラッキーだなあと思う。
出来上がったスキャン画像をドクターがチェックして、OKが出たので終わり。
明日の手術がんばってね~と言われて、家に帰った。
その日は微量とはいえ一応内部被曝中の身なので、なるべく子供には近づかないようにした。

1月12日木曜日(手術当日)
11時30分、病院到着。
一番大事な手術の日なのに、今日は病院内のどこへ行けばいいのか手紙に書いてないので分からず、
受付を転々として、最終的に自分の病棟へたどり着く。なんだかなあ。。。
私の専属となるナースのポーラと会い、問診を受ける。血圧と体温のチェック。
その後、麻酔医からも問診を受ける。
その後はずーーっと暇。私は今日の手術の5番目で、まだまだ時間があるということで、リラックスして過ごす。
幸い個室で院内wifiも無料、テレビも無料なので快適。
2時ごろ、私の前の順番の人が呼ばれたので、あと1時間後くらいと言われる。
そのすぐ後に執刀医が来る。女性でちょっと苦手な感じだったので、少し不安に。
2時半、ナースから支度をしろと言われて、手術ガウンに着替える。
パンツはコットンなので履いたままOK。足に浮腫防止タイツを履く。
3時頃、別のナースに呼ばれて手術室へ歩いて向かう。
上の階に行くのに普通のエレベーターに乗る。変な感じ。
手術室前でだんなと別れる。私は落ち着いていた。
自分でベッドの上に上がり、麻酔医とおしゃべりしながら麻酔を打たれる。
目が回るなーと思っていたところから記憶がない。
・・・・
その後リカバリー室で目が覚める。
目がぐるぐる回っているが、なんとか時計が見えて5時半くらいだった。
それからしばらくそこでぼーっとする。
少し痛みを感じると言ったら、痛み止めを追加していた。
だんだん目の回るのが収まってきて、壁に貼ってあるチラシの字が読めるようになってきたころ、
病室へ戻される。6時半頃。
病室でだんなと対面。とても眠い。執刀医が来る。
センチネルリンパに微少転移が見られたがリンパ節廓清していないとのこと、
どういうことか納得出来なかったが、それ以上聞き返す気力ない。
眠いので、だんなには帰ってもらう。
眠いけど、完全には眠れない。半分睡眠状態が続く。
9時半頃、紅茶とトーストが運ばれて来た。
食べたくなかったが、食べたら元気が出てきた。
日本だったら、こんなときは必ずおかゆだと思うけど
私にはこの経験で、紅茶とトーストが特別な食事になった。
同時に痛み止めの薬も飲む。
トイレに行きたい感覚はあまり強くなかったが、ずっと行ってなかったので
出した方がいいだろうと思って、トイレ介助も頼んだ。
痛みがあるわけではないが、ドレインと点滴がついているので、ひとりではちょっと無理。
歩き出したら吐き気に襲われた。トイレに座ると少し良くなるが、
ナースに顔が真っ青よ~と言われ、ゲロ容器をもらう。
用を済ませて歩いたら、また吐き気が出たが
なんとかベッドに横になったら、吐き気は収まった。
それから、半寝半起き状態が朝まで続く。

1月13日金曜日(術後1日目)
6時くらいから、目が覚めていたように思う。
多分、夜中に点滴が外されてたように思う。
つながっているのがドレインだけだったので
ドレインを自分で持って、トイレに行ってみたら
今度は吐き気がなかったので安心した。
8時頃、朝食の紅茶とトーストを食べる。
食欲がないけど、無理矢理ゆっくり食べることにする。
で、これまた食べ始めたら、気分が良くなったので、結局完食した。
食べている最中にドクター訪問。
昨日の執刀医の女医とは違う男の先生二人で、昨日の女医よりも話しやすい。
うち一人は昨日の手術に立ち会った人で
もうひとりは手術前日のサインのときに話した人。
二人とも同じチームということで、昨日の手術のことをもう一度質問する。
センチネルリンパの微少転移は、これ以上の転移がある可能性が非常に低いレベルなので
リンパ廓清を行っていないということで、一応納得する。
でも、微小転移があったということは、ガンは多かれ少なかれ浸潤していたということだ。
病理結果がどう出るかが気になる。
術後の経過は良好で、ドレインの中身も昨夜からほとんど増えてないので、
もうドレインを外して、退院していいよと言われた。
その後、専属ナースが来てドレインを外してくれた。
次にフィジオセラピストが来てリハビリの話が終わったら、
もう早く帰ってほしいような感じ。次の患者さんが控えているらしい。
私としてはゆっくり夕方くらいまでいたかったけど、
結局、11時くらいにはベッドを開けなければいけなくなった。
外出着に着替え終わったところに、乳がん経験者の友達が来てくれた。
もうちょっと遅かったらすれ違ってたところ。こんな早く退院するなんてねえ。

痛み止めの薬は、パラセタモールとアイボプロフェインだけで大丈夫と言われた。
え、そんなもんでいいの!?!?と、少し不安だと言ったら、
じゃあ少し強い薬も出してくれた。

車で帰る。不安だった車酔いもなし。
家に戻り、ベッドで寝ながらiphoneで遊ぶ。
夕食後すぐに眠くなり寝る。術後まともに眠ったのはこれが初めて。
深夜過ぎに目が覚めて、アイボプロフェインを飲んだら、
空きっ腹だったせいか気持ち悪くなる。
しばらく横になって良くなったように感じたが
今度は胃の中で消化された薬が胸焼けを起こしているような感じになり
吐き気が強くなったので、思い切って吐いてみたらすっきりした。
アイボプロフェインは食中食後に服用するものだったらしい。。。
その後は、朝まで眠る。

1月14日土曜日(術後2日目)
薬は必ず食後に飲むように気をつけ、その後は吐き気などおこらなくなる。
食欲も割と普通にある。
痛みはそれほどないが、触ったり、腕を内側に動かすと痛い。
傷のあたりは固い板が張ったような感じ。
痛み止めの薬の感覚が空くと、この板がより固く重く感じる。
一日ベッドで過ごす。iphoneでテルマエロマエを読む。
夕食後眠くなり、そのままほとんど起きずに朝まで良く寝られた。

1月15日日曜日(術後3日目)
朝6時半頃目が覚めて、自分で朝食を作って食べた。
パソコンの画面も見れるようになった。
友達が差し入れを持ってきてくれた。
動こうと思えば結構動けそうだったが
まだ甘えさせてもらって、ほぼずっとベッドの中で過ごす。
そう言えば、術後以来便秘が続いている。今朝もふんばったけど少ししか出ない。
ダンナがみそ汁を作ってくれた。

1月16日月曜日(術後4日目)
便秘が深刻になり始める。
出口まで来ているのに固くて出ない!
指を突っ込んだりしてみたけど(失礼!)ほんの少ししか出ない。
まだまだ溜まっているのが分かる。
今日はシャワーを初めて浴びた。
左腕も多少使えるので、洗髪もほとんど問題なく自力で出来た。
そのまま服に着替えて今日から床上げ。
退院時に胸パッドを渡し忘れていたと連絡を受けていたので
それをもらいに病院へ行く。ついでに便秘の相談。
よくあることだから、薬やプルーンでなんとか治せるでしょう、という感じ。
家に戻ってから、地元のハイストリートでショッピング。
しばらく腕が上げられないので、前開きのパジャマとシャツを買う。
術後外を歩き回るのは初めてで、少し疲れたけど大丈夫。
夕食後、プルーン・ジュースを飲んだら、30分後くらいにトイレに行きたくなり
寝る前までに2回、少しだけ出すことが出来た。
まだまだ堅くて、出すのに苦労するが、あまりの効果の早さに驚く。
寝る前に、便秘薬も飲んだ。

1月17日火曜日(術後5日目)
朝一でまた出た。
昼ご飯の後にプルーン・ジュースを飲み、またその30分後くらいに出たときは
大分出しやすくなっていたので、安心。
ダンナを手伝って家事を少しやり始める。
家事をすると、日常が戻って来たような気持ちになる。
ダンナと一緒にスーパーへ買い物。
自信がついたので、午後の子供のお迎えもダンナと一緒に行く。
学校と家の往復も、それほど疲れなかった。

1月18日水曜日(術後6日目)
今日も朝のお弁当作りはダンナにお任せ。
洗濯は私がやる。
傷跡は、大きな絆創膏の下にあるので見えないが
横一文字に切ってあるようで
みぞおち近くに血が染みているのが見える以外は奇麗になっていたが、
数日後から周辺にアザが出来始めていた。
今日は、アザが傷跡から離れたアンダーバストに沿ったラインに出来ていたので
ブラのせいかもしれないと思い、しばらく付けるのは止める。
乳がん患者用のブラなので着け心地は悪くなかったんだけど。

1月19日木曜日(術後7日目)
お通じは朝からほぼ通常に戻った感じ。
今日は朝から学校へ行こうと思ったけど大雨なので断念。
午後も、友達が子供たちのピックアップしてくれたので
一日どこにも出かけず。
晩ご飯も、ダンナの友達が送ってくれた高級冷凍食品で簡単に済ます。
食べてばかりで働いてないので、太って来たように思う。

1月20日金曜日(術後8日目)
朝、ダンナの運転で学校へ行き、そのままクロイドンでショッピング。
ブラ付きキャミソールと、ポスト・サージェリー・ブラのアンダーバストがひとつ上のサイズのものを買う。
ここでは、VATをレジで差し引いてくれた。
やはり、ノーブラは傷口も野ざらしのようで落ち着かない。
ブラ付きキャミソールはアンダーバストついてるゴムが締め付けるように思ったので
それを切り取って着てみると問題なし。サポートされている感じが良い。

1月21日土曜日(術後9日目)
旦那の送迎で補習校へ行き、図書委員と学級委員の二つの総会に参加するも
それほど疲れずに終わったので安心した。
手術のために補習校に行かなかったのは1回だけだったが
その前に冬休みを挟んで、その前後も2回休んでいたので、超久しぶり。
最近、見ないから止めたのか思った~と言う人もいた。
補習校の人は私の手術のことをほとんど知らない。
話そうかと思ったけど、なんか面倒くさくなったのでやめた。
別に言う必要ないなと思った。
家に戻ってから、自分の昼食用にチャーハンを作る。これが術後最初の料理。
その後、夕食のカレーとサラダも結局、ひとりで作ってしまった。
家事はもう全部完璧に出来そう。自信がついた。

1月22日日曜日(術後10日目)
朝から旦那が1泊2日の仕事でスコットランドへ行く。
ずーっと一緒で支えてくれていた旦那がいないのは不安だったが
友達が来てくれたので随分気がまぎれた。
友達とのおしゃべりも楽しく、疲れなかった。
もう不普段通りの感覚。

1月23日月曜日(術後11日目)
学校と空手とバレエの送迎を全部ひとりでやる。
昼ご飯後に薬を飲むのを忘れていたくらいなので
それ以降、Ibuprofenはやめて、Paracetamolだけにしてみる。

ここで術後の記録はおしまい。回復は思ってたほど早かったですね。
でも、先日の発熱で入院したときに、隣のベッドで手術をした方は
私より10歳くらい年上に見えましたが、手術直後から元気に歩き回っていました。
乳がんの手術なんて、ちょろいもんです。
帝王切開の方が大変でした。
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プロフィール

ゆきこまる

Author:ゆきこまる
イギリス在住、二児の母、なんちゃってピアノの先生、でもほぼ専業主婦です。ピアノを弾くこととネットで日本のテレビを見るのが一番の楽しみ。乳がんを経験してからは、健康オタクにもなりました。

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